時代と共に変わった、
僕らの「耳」
― 100年前の違和感と、今の違和感 ―
音楽が貴重だった時代から、音楽があふれる時代へ。変わったのは音楽そのものではなく、僕らが音楽を受け取るときの「構え」と「耳」なのかもしれません。
音楽が、その場で鳴って、その場で消えていく世界
いきなりですが、少し想像してみてください。
スマホはもちろん、テレビもない、ラジオもない。電話も、洗濯機も冷蔵庫もない。今の僕たちが当たり前に使っている家電製品のほとんどが、存在しない世界!
音楽を聴きたければ、誰かが演奏している場所まで足を運ぶか、自分たちで演奏するしかない。録音と再生もできないから、音楽はその場で鳴って、その場で消えていく。
ダルクローズがリトミックを考え始めた1890年代は、そんな世界でした。
世界で初めてラジオの定時放送が始まったのは、それよりずっと後となる1920年のアメリカで、日本ではさらに5年先、1925年のことだそうです。
蓄音機はすでに発明されていましたし、オルゴールや自動演奏楽器のようなものも、実は存在していました。ただし、持っている人や置いてある場所はごく一部。とっても珍しいものでした。
また、楽曲の数も限られていて、好きな曲を選んで聴く、という感覚とは程遠い。
つまり当時は、我々と生活の様式が違っているだけではなく、きっと音楽への意識も違っていたはずです。少なくとも音楽は、「どこでも好きに聴けるもの」「どこでも流れているもの」では、なかった。
音楽との出会いが、「イベント」だった頃
自分が小学生だった頃を思い返してみると、テレビはあったし、ラジオもCDもテープレコーダーもありました。
それでも、ふと耳にした「わ、この曲いいな! なんていう曲だろう!」という音楽も、タイトルや歌手名などが分からなければ調べようがなかった。
だからこそ、音楽を「捕まえよう!」と、音楽が聴ける番組を、カセットテープの録音ボタンを構えて楽しみに待ち構えていました。
すでにお店やスーパーなどでは散々音楽が鳴っていたはずですが、音楽を聴くこと、新しい音楽に出会うことが、自分にとって一つの「イベント」だったように思います。
いつでも、どこでも、音楽に手が届く現代
ではでは、現代に戻って――。
音楽を聴く環境について考えてみると、いつでもどこでも、端末さえあれば自分の望む曲を鳴らせるし、聴ける。また、断片しか記憶のないような、うろ覚えの曲もすぐに調べられちゃう!
本当に、便利な世の中になりましたよね。
いろんな情報にすぐアクセスできるし、捕まえられる。
でも。
「捕まえよう!」としていたあの頃と、今とを比べてみると、やはり何かが変わった気がするのです。
「いま逃したら、もう聴けない」と思っていた
虫取り網とカゴを持った少年よろしく、「いま逃したらもう聴けない!」と、一生懸命に聴こう、捕まえようとしていた音楽。
それが今はもう、捕まえに行かなくても大丈夫。逃げない。
それどころか、駅のホームでも、コンビニでも流れてるし、なんだったら自分の端末が「あなたへのオススメの曲はこれ!」と勝手に提案してくれる始末。
むしろ、向こうからやってきてる?
あくまで「昔のほうが良かった……」と言いたいわけでは、間違ってもありません。
蛇口をひねると水が出てくる現代を憂いて、「井戸の時代は良かった……」「川へ水を汲みに行っていた時代は……」などということではなく、むしろ素直に、とても豊かなことだと思います。
変わったのは音楽ではなく、僕らの「耳」
ただ。
そのような中で暮らしていると、どうしても僕らの耳は「聞き流す」ことに慣れていく。
音に限らず、人が刺激や環境に慣れていくのは自然なことです。
ダルクローズの時代、僕がカセットテープに録音していた時代、そして今。そこで変わったのは、音楽そのものではなく、僕らが音楽をどう受け取るかの「構え」、そして「耳」の方ではないか――。
そんなふうに思うのです。
場を整える最初の一歩は、「音のない時間」
三回目の終わりに、「出会いの場をととのえる」という話をしました。
このような理由から、場を整えるための最初の一歩は、何かを足すことではなく、まずは「音の鳴っていない時間」を用意することだと、僕は考えています。
そして、その考えのもと、リトミック・ネクストを監修するに至りました。
生まれた時から、いつでも音楽に手が届く子どもたち。彼らの耳に、世界はどう聴こえているんだろう。
――そんな問いとともに、次回は、その「音のない時間」の中で、僕らは何に気づくのか、というお話をできたらと思います。
